2007年12月30日
本澤二郎の南京・上海・昆山(4):本澤二郎
[東京=「ジャーナリスト同盟」通信提供]
2007年は上海との関係が濃厚になった年である。昨年に同済大学の顧問研究員、今年は上海交通大学の客員研究員に就任したからかもしれない。だからといって、何か当方の生活に変化があるわけではない。筆者には、多少とも上海に止まり木ができた程度のことである。
<霧の上海>
羽田空港国際線から上海の虹橋空港へ飛んだ。12月8日のことである。客を羽田空港に送り届ける京浜急行の穴森線に乗った。15歳のころ利用していたものだから懐かしい。母の祖父が、仕事の便利さから娘を羽田に嫁入りさせたことによる。庶民レベルの政略結婚だろう。母の姉である。「羽田は栄えるぞ」が祖父の口癖だったというが、予言は正しかった。祖父は房総半島の竹を切り出して、大森海岸の海苔業者に売って生計を立てていた。現在、東京都と国土交通省は、千葉県の山林を掘り崩して空港の埋め立てに利用している。
心は晴れない。いつもの一人旅のせいばかりではない。体調を壊した友人のことが気になって仕方ないのだ。空港の国際線も不便でいらつかせる。国内線からバスを使わないと行けないからだ。初めての利用者は困惑してしまうだろう。一つだけ気に入った。便所にうがい器を設置してあった。これは成田にもない。
羽田の国際線は台北、ソウルと上海の3路線である。出国手続きに長い行列ができる。便利なはずの空港ではないのだ。免税品店をのぞくと、中国人と韓国人の購買力がすさまじいのに気付かされる。日本人は形無しである。羽田国際線での儲け頭は、どうやら外国人相手の免税品店だろう。
飛行機は中国東方航空だった。乗務員の態度・サービスがいいのがうれしい。昔のツンツンした中国民航のスチュワーデスはいない。つい缶ビールを2本も飲んでしまった。美しい音楽を聞こうとしたが、こちらはパッとしなかった。誰が聞いても、うっとりするような音色の音楽を流せないものか。
上海上空はやはり汚染がひどい。虹橋空港を出て高速道路に乗ると、白いはずの高層ビルの壁が黒ずんでいるのが気になって仕方ない。「霧のロンドン」さながらの「霧の上海」は、空気の汚れが犯人だから深刻この上ない。
「己に降りかかる全てのことは理由があるからで、したがって無駄なことは一つもない」というが、個人に限らない。社会にも通用するだろう。
方法はある。自動車の全てを電機自動車にすればいい。これに王手をかけた富士重工は、中国で大量生産すれば一石二鳥ではないだろうか。量産すればコストでも太刀打ち可能だろう。また、地下鉄を活用したらいい。土地が国有の強みは恨めしいくらいである。
小さな荷物を上海交通大学が経営する博学楼賓館に預けると、空港に出迎えてくれた劉君は、友人が今晩準備しているという晩餐会の場所へと案内してくれた。
<本物の上海蟹>
そこは上海の浦東地区にある一番高いハイアットホテルだった。87階の高さ300メートルにある小部屋が、その贅沢すぎる晩餐会場だった。主催者は、主に日本との貨物輸送で成功している、まだ30代の劉偉である。南京大学で日本語を習得した中国人エリートのひとりだ。彼の会社の日本担当部長が50歳の堤政俊である。単身赴任を楽しんでいる日本人だ。副部長の韓玉花の日本語は上手である。
晩餐会の主役は、繊維の総合商社「蝶理」課長の丸岡信吾である。彼には南京訪問を勧めた。商売にも貢献するだろうから。筆者は彼の余録で席に着いた格好である。この場で「アメリカ人はまるで獰猛な野獣だ。日本人がいい」という会話が聞かれた。商売の世界は皆目わからないが、それでも門外漢ながら誉められたようでうれしい。
本心から喜んだのは、この場に本物の上海蟹がテーブルに乗ったことである。しかも、実に七面倒な蟹を食べるのに必要な器具がついているではないか。さすがは高級ホテルだ。日本の料亭での蟹料理には、芸者の手を借りて食べたことがあるが、そこにはそれ用の器具がついていた。しかし、上海では今回が初めてのことである。
しかも、陽澄湖の蟹である。太湖のものではない。本物の上海蟹なのだ。感激のあまり、カメラに収めてしまった。そうして円卓の人々に向かって「上海蟹の食べ方が一番上手な方は、カンボジアのシアヌーク殿下である」と披瀝した。仕入れて数ヶ月の情報である。
日本でもそうだが、蟹を食べ始めると、途端に会話が途切れてしまうものだが、それは中国でも同様である。いつもより時間をかけて食べた。
<豆乳と揚げパンとラーメン>
翌朝、ホテルの食堂に入るのが遅かった。朝食の時間が過ぎていたらしい。仕方なく外に出た。路上にはみ出しながら豆乳を売っている食堂を見つけた。大きな容器の中の豆乳は湯気が立ち上っていた。
清潔な店ではなかったが、健康飲料の豆乳が気に入ったので店内に入った。3人ほどの客と数人の店員がいた。身振り・手振りで注文した。客の一人が豆乳と揚げたパンを食べていたので「同じものを」と必死になって訴えたところ、すぐ若い女性店員は理解した。
大きな皿に豆乳が目の前のテーブルに乗った。揚げパンはビニール袋に包んで出してくれた。ビニール袋の使用が、こうした下町の食堂を清潔なものに格上げしている。
中国人にとっての朝食の定番がこれなのだ。筆者もそれを真似てみたのだ。瞬く間に豆乳はなくなった。もう一杯追加した。食べ終わると、店員に紙とボールペンを渡した。値段を聞くためだ。確か3・2元だった。1元は15円程度である。「少し痩せたい」との悲願をこめての朝食となった。
今日は日曜日である。一人ですることがない上海を楽しもうというのである。午前中はホテルでのんびりとテレビを見ながら過ごした。といっても音楽番組である。古典音楽である。交響楽団による演奏だから、これは万国共通である。不意に見たような顔立ちのバイオリニストが大写しになった。健康を害している友人に似ているではないか。世の中には似たもの同士がいるというが、まさか上海で、それもテレビ画面でお目にかかろうとは思いもかけなかった。
午後1時過ぎぶらりと街中を散歩することにした。もちろん、ホテルのパンフを懐に入れた。目の前の広い道路は車の往来が激しい華山路だ。反対側に上海交通大学の中国風の門がある。東大の赤門にそっくりだ。左手前方の角に大きな店がある。日本だとスーパーマーケットである。入り口に飲料水を売っているような箱にサツマイモが入っているではないか。店員に声をかけると、1個取り出してくれた。4元である。中国の焼き芋はべっとりとして柔らかくおいしい。すぐさま胃袋に消えた。
そこを出て普通の拉麺(ラーメン)店に入って、そこの一番高い麺を注文した。12元である。店員の男の子の洋服に清潔さがない。飛び出そうとしたが間に合わなかった。しかし、味のほうは、客を失望させることはなくまあまあだった。旅人にとっての贅沢な過ごし方であろう。
夕刻に、またしてもラーメン店に飛び込んだ。注文しやすいのと、ラーメンには思い入れがあるからである。20年ほど政治記者として国会を徘徊した人間が、急いで胃袋に入れられる食べ物がラーメンだった。値段も安い。因果な商売だから、食事に時間をかけるとの観念がないのだ。5分から長くて10分で十分だと信じてきた。そうすると、記者の溜まり場である国会記者会館のレストランが、いつもすいていたのである。それはこちらが出向く時間が3時とか4時という不規則時間だからでもあった。
「健康にいい」という話から議事堂内の日本ソバ屋にもよく出入りした。ここもそんなに時間を必要としなかった。ただし、国会議員が席に着くと、彼らを優先する店の対応が癪に障ったものである。総理大臣にもなった鈴木善幸が自民党総務会長のころ、昼に押しかけると秘書がすぐさまラーメンを注文した。ラーメンをすすりながら情報交換をしたものである。議事堂1階に大きな食堂がある。関係者は人民食堂と呼んでいた。座っていると、そこに岩崎秘書にかばんを持たせた中曽根康弘が座った。確か二人ともラーメンだった。思えば、仲のよかった岩崎は自分の選挙直前に亡くなってしまった。いい人間も不運には勝てなかった。
筆者の子供のころの最高の贅沢が街中の食堂のラーメンだった。まあ、そんなわけでホテルと並ぶ建物の一角を占めて「味千拉麺」の看板を出している店に入ったのである。客が一杯だ。人気の店らしい。敏捷そのものの店員が座席を指定すると、メニューを差し出した。日本の外食店のようにカラー写真付だから、注文に時間はかからないし、便利である。筆者のような外国人にはまことに助かる。さすが上海である。白いスープが珍しかった。注文間違いで、つい食べ過ぎてしまった。
外に出て腹をすかす必要に駆られた。大通りから横道に入ると、プラタナスの巨木が茂る道に出た。上海に来てこの木に出会うと、不思議と安堵するのである。日本でよく見かける「ローソン」が現れた。24時間営業だ。弁当の棚に海苔巻きが残っていた。入り口に中国式おでんが湯気を立てていた。缶ビールとつまみと水を買った。
<雨模様の上海>
10日は月曜日だ。午後に大学の関係者との予定が入った。窓のカーテンを開くと、道行く人が傘をさしている。雨である。随分と少なくなった自転車利用者は雨合羽を着て走っている。中国人にとって雨は恵みの場合が多いらしい。空気を清浄にしてくれるからである。喉の健康にもいいからだ。
朝食に豆乳の店に向かった。混んでいた。やむなく先へと数歩行くと、いろいろな饅頭を売っている店と出会った。いくつか買った。5元である。軒下でほおばりながら車道見学としゃれた。物足りないので昨夜入った「ローソン」で牛乳とパンを仕入れてホテルの部屋で食べた。昨夜の海苔巻き弁当がそのままだったのが、妙に気になってしまった。日本での賞味期限切れの事件を思い出したからである。
昼前に雨が上がった。運動を兼ねて広大な大学構内を散策することにした。入ると、外の喧騒がうそのように、まるで公園のように静かである。だからといって人はたくさん往来している。学生たちだ。自転車利用の学生も。バイクも走っているが、こちらは電気でモーターを回しているから騒音はない。
広さは、学生に気宇壮大な夢と希望を与えるに違いない。学生食堂がある。ここも広いが学生で隙間がないくらいだ。清潔である。復旦大学と同じようなのだ。恵まれている。日本の大学のせせこましさは無縁である。この大学は卒業生の一人である江沢民が国家主席になったことで、世界に知られるようになったのだが、構内に彼の自筆の記念碑が建てられていた。
散策していると、こぎれいな喫茶店のような談笑する場所もある。急に白人、黒人の学生が目に付き始めた。そこに留学生の寮がそびえていた。いつもながらの光景だが、中国人学生に化粧姿は見られない。学業に専念しているのである。「21世紀は中国の世紀」と感じてしまうのも当然だろう。
午後は結局のところ、筆者の弟子である劉君に日本政治を伝授して過ごした。
<フランスの足跡>
翌朝(12月11日)、朝食のあとの散歩で新たな発見をすることが出来た。どうやら、近くにかつてのフランス租界地があったらしい。太いプラタナスの街路樹に沿って歩いていくと、高い塀とわずかだが森のある高級地に出た。そうしてみると、昔はこの辺りも森で覆われていたのであろう。門には守衛までいる。市の高官が住んでいる場所と推定した。塀に並行していくと、希望の泉という噴水公園にぶつかった。泉の寄贈者はフランスである。さすがはフランス、やることがすごいと感心してしまった。日本人には出来ない芸当である。
昼前に1年前に知り合った強英が米国製の自家用車で現れた。劉君の身代わりである。親切な彼女は、上海国際問題研究所の李秀石の職場近くのレストランに案内してくれた。3人で食事をした。二人とも日本語使いだから楽しい。落ち着いたいい店だった。わざわざ蟹まで注文してくれた。ありがたいことである。この場で感謝したい。
食後に強英は、虹橋空港へと送って行ってくれた。まもなく東京から小松一行が到着するはずだ。合流して昆山へと出かけることになっていた。 (2007年12月30日記)
2007年12月30日 19:34