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2007年12月31日

「あの日、あの時―日露戦争と統監政治」≪45≫:鄭容順

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参考著書は【日韓歴史共通教材】―「日韓交流の歴史―先史から現代まで」『歴史教科書研究会(韓国)・歴史教育研究会(日本)編―明石書店発行。

「日露戦争と統監政治」
■ 第1次日韓協約と顧問政治
1904年5月、日本政府は韓国をさらに確実に支配するための政策を閣議で決定し軍事・外交・財政・交通・通信・産業の分野での利権を拡大する方針を立てた。この方針にそって日露戦争中の8月、日本政府は韓国政府に第1次日韓協約を認めさせた。これによって日本政府は財政と外交の顧問を韓国政府に送り込み外交と財政の権限を掌握した。財政顧問は大蔵省主税局長の目賀田種太郎、外交顧問は日本公使館顧問を務めたアメリカ人スチーブンスであった。スチーブンスは日本の介入を外国の監視からそらす役割を果たし第2次日韓協約(乙巳条約)の締結にも協力した。日露戦争を戦いながら日本は着々と韓国の支配権を確保していった。

■ 日露戦争と列強の対応
日露戦争は日清戦争とは比較にならないほど大規模な戦争であった。両軍の勝敗はなかなか決まらなかった。日本軍は財政上の限界から戦争を継続することが困難となりアメリカ大統領に調停を依頼した。一方、ロシアもバルチック軍隊が敗退し国内の革命運動が激化したために調停を受け入れた。日露講話会議はアメリカのポーツマスで開かれた。
西洋列強は世界分割と関わる日露戦争に重大な関心を持っていた。そこで日本は、桂=タフト協定でアメリカのフイリッピン支配を認め第2次日英同盟ではイギリスのインド支配を認めることで日本の韓国支配を両国に承認させた。
日本は韓国支配の既成事実を積上げ日露講和条約(ポーツマス条約)には日本の韓国支配が明記された。日本の韓国支配は列強の承認の下で行われたのである。日露戦争の結果、日本は韓国のほかにサハリン(樺太)南部、遼東半島、満州南部への勢力圏を伸ばし帝国主義の地位を確立した。
<目賀田種太郎>1853―1926。日本の大蔵省官僚で第1次日韓協約によって韓国政府の財政顧問に就任し貨幣整理事業を実施した。韓国の財政・金融を日本の勢力下に編入させる政策を実施した。後に日本の貴族院議員、枢密顧問官などになった。
<桂=タフト協定>1905年、日露講話直前に来日したアメリカ大統領特使タフト陸軍長官と桂太郎首相との秘密覚書。アメリカは日本の韓国における優先的支配を日本はアメリカのフイリッピン支配を相互に認めあった。極東の平和維持は日・米・英三国の協力で行うことを規定した。韓国にとっては「密約」であった。
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****第2次日韓協約(乙巳条約)の「締結」過程(1905年11月)****
1905年、訪韓した特使伊藤博文は保護国化に抵抗する韓国皇帝高宗に対し「日本政府はこの条約案を確定案として提出しているので変更する余地はまったくない」と承諾を迫った。さらに韓国駐留の日本軍司令官をともなって韓国政府の閣議に出席した伊藤はすでに皇帝の臨席する会議で条約案拒絶の結論がでていたにもかかわらず閣議で大臣1人1人に条約締結の賛否を聞いた。
参政大臣(首相)と度支部大臣(蔵相)は「絶対に否なり」と答えた。
外務大臣(外相)は黙したがそれは承諾したものとされ、ほかの4大臣はしぶしぶ同意した。そこで伊藤は賛成多数として第2次日韓協約(乙巳条約)を強要した。この協約によって日本政府は韓国の外交権を奪い韓国を保護国とした。
この第2次日韓協約(乙巳条約)を結んだ5人の大臣は「乙巳五賊」と呼ばれ親日派の最たる者として韓国社会で批判の対象となっている。
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世界の教科書シリーズ⑰―「韓国の小学校歴史教科書―初等学校国定社会・社会科探究」三橋広夫訳(明石書店発行)から。

「高宗皇帝のハーグ特使派遣」
乙巳条約によって外交を奪われた後、オランダのハーグで世界各国の代表が参加する平和会議が開かれるという知らせが伝えられた。
高宗皇帝はこれを日本がわが国の主権を強制的に奪ったという事実を知らせるよい機会と考え、李相高、李儁、李瑋鐘の3人を特使として派遣した。しかし彼らは日本の妨害で平和会議への参加に失敗してしまった。
しかしオランダの各新聞は特使が各国代表を送った要請文を載せ世界各国の記者に日本の侵略事実を知らせた。
一方、高宗皇帝を追い出すよい機会と見ていた日本はハーグ特使を派遣したことを口実に彼を皇帝の地位から追い出した。

このコーナーを書いているのが2007年12月30日。後1日と8時間ほどで2007年は過ぎていく。来る年は2008年そして2年後は2010年、韓国が日本に統治されて100年の歴史を迎えることになる。
その間に1世の渡日から5世までの命を繋ぎやがて6世の誕生にもなるだろう。20年ごとに世代を日本で命を繋いできた。なんという歴史の証で連綿と繋ぎとめてきた。その1世の存在は減少し今は2世の世代にもなったがその2世も高齢者になり3世に民族の風習や文化など託している。しかし時代の流れは変わり3世から4世の日本国籍収得と日本人との国際結婚に歯止めがきかなくなっている。
1世から受け継いだ母体のルーツはいくら日本国籍になっても流れている。日本で生まれ育った社会環境の中でも日本人とは違う血が流れている。表面では日本人も在日コリアンも区別がつかなくなっているが成人するに従って親から受け継いだものが確実に受け継いでいることをいつかは知っていく。本能的に体が教えていく。
日本人と違う感性に気がつくのは遅かれ早かれ必ずやってくる。
自分の中で感性が日本人と違うと気がついたときはけっしてマイナス思考にならずプラス思考として日本社会で育った環境とルーツがもつ感性は2つの感性を持ち合わせたもので日本人にはつかみとれない大事な感性のスポットを確保したと考えて民族という母体に前向きにとらえてもらいたい。そして先人が歩んだ渡日史に少しでも興味を持ってもらいたい。関心を持って学習することでまた新しい発見は自分の感性を磨いていくことになる。
筆者も民族から逃げていた時もあったが民族に遭遇して2つの文化や歴史を知ることになり客観的に物事をみていく感性に繋がっていった。
<写真説明>①2001年の秋、韓国で行われた大田博覧会、このときは夫も一緒に民団奈良県本部の団体ツアーに参加した。大田博覧会で民団大阪本部婦人会のオモニ(母)コーラス部が美しいハーモニーで韓国の歌を数々披露した。この時の韓国の有名に歌手の歌も印象に残っている。特に「愛の迷路(サラゲミロ)」を歌っていた歌手も心の中で記憶して残っている。大阪の婦人会のオモニたちが舞台発表をした写真の1枚である。②1995年前後の秋だった。釜山から統一号という列車に乗って慶州に向かうところだった。乗車していた列車が途中、踏み切りで乗用車が衝突して事故になった。そのときしばらく列車は止まった。一緒に行った知人の李○○さん。民団京都本部で事務員として働き京都大学に留学していた夫を子育てしながら働いていた。内助の功は夫を助け夫は今、釜山の大学で教授をしておられる。知人は事故現場に事情を聞きに行っている。筆者は怖くて現場に行かれなかった。話している彼女を写真に撮った。当時の状況風景である。③世界の教科書シリーズ⑰―「韓国の小学校歴史教科書―初等学校国定社会・社会科探究」三橋広夫訳(明石書店発行)から転載。高宗皇帝の退位を強要し南山に大砲を配置し威嚇する日本軍の様子の写真です。その上の写真は高宗皇帝の強制退位の事実ほ報道した新聞の号外(ハングル版)

2007年12月31日 00:54

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