2007年12月31日
本澤二郎の南京・上海・昆山日記(最終回):本澤二郎
[東京=「ジャーナリスト同盟」通信提供] 11日夕、小松一行と虹橋空港で合流すると、小松電機の誇るシートシャッターを中国で販売しているという会社が用意したマイクロバスに乗って昆山へと向かった。ここから一行は社長の小松昭夫、中国人工学博士の魏亜玲、堀江研一、藤井雅樹の4人に筆者が加わっての総勢5人である。藤井は中国初訪問だから楽しくて仕方ない、といった様子だ。魏は中国の理工系大学を卒業、国費留学生として日本の大学院で博士号を取得した才媛と聞いている。
彼女とは数年前、小松との連絡のさい、メールでやりとりしたときが最初の紙上出会いだったと記憶しているが、外国人離れした文才に驚かされて強く印象に残った。その後に小松が招待した山東省の訪日団を、一緒に日光観光に同行したこともあった。一度、北京でも。しかし、ゆっくりとおしゃべりをしたことはなかった。今回は列車の旅行(南京―上海)で身の上話を聞くことができた。日本滞在16年というが、ともかく大変実力のある中国人女性である。誠実・真面目を絵に描いたような、昨今では珍しい中国人といっていい。
小松は、拙著「中国の大警告」(データハウス)を介して友人になった、企業人として平和運動に取り組んできている人物だ。とりわけ韓国や中国の平和交流に熱心だ。製造しているシートシャッターは、日本国内でも優秀な製品として知られ、通産省などからいくつも賞をもらっている。昆山行きは、この製品の現地組み立て製造の可能性を見極めるためでもあった。
<台湾経営者>
4星の昆山賓館に現れた老人は、台湾での仕事を息子に任せて、自らは第二の人生よろしく昆山にやってきて小さな工場を持ち、一人で営業しては製品を販売して、それなりの優雅な生活を楽しんでいた。「私は台湾人」と主張することも忘れない。蔡英材がその人である。台北県が故郷だ。
ここには台湾企業がたくさん進出してきている。多分、日本企業を上回っているようだ。台湾企業で支えられ都市なのである。彼は太い人脈で商売しているのだった。そして現地を小松と魏に案内することで、小松製品の現地組み立てから現地生産をするように忠告しようというもので、それを断固として主張した。
彼の説明では、台湾企業の大陸移転は約40万社、200万人が大陸で働いているという。見方によれば、大陸が台湾を飲み込んでしまっている。もはや対立の牙は抜かれてしまっているのだろう。上海の高級マンションを買い占めている特権層の一部を形成しているらしい。また、昨今、中国の物価上昇が早いことも指摘した。「4年前の給与800元は現在1400元になっている」とも。それでも、日本円で2万5000円程度という。
彼自身、若い中国人男女を5~6人雇っての企業経営だから、景気に大きく左右されることはない。相手先しだいで、製品を台北と小松電機から持ち込んで商売している。
こうした事情を踏まえての視察会を12日、小雨降る昆山で強行した。商慣行なのか、小松は視察させてくれる会社にお土産を用意してきていた。しかし、蔡は「人前では渡すな」と釘を刺した。「こっそり」が効果的というのである。
最初に大手のタイヤメーカーを覗いたのだが、取材は拒絶された。企業秘密が完璧なのである。かつては日本の大手タイヤメーカーが台湾で生産していたらしい。しかし、いち早く中国に転進、今では台湾企業として大きな利益を上げている。従業員は5000人を上回る。工場の敷地は広大である。
会議室の壁には、経営の基本方針が掲げられており、「和諧」という現政権が打ち出した理念が新たに加えられていた。品質中心とか人間尊重、環境重視も会社の方針となっていた。人権や環境への取り組みを社員に徹底していた。
蔡も、小松までも「技術面でも遅れていない」と相槌を打つ始末だ。「日本の若者がかわいそうだ」とも小松は口走った。「日本の役人はでたらめ。若者に未来がない」とも付け加えた。同感である。「日本の物作りは世界一」と吹聴する学者・文化人が多い日本だが、それは現地を見ていないから吐ける言葉でしかない。門外漢の筆者にも肌で感じることが出来るのである。
この大手タイヤ会社のシートシャッターに小松製品を納入したい、というのが蔡の目的だが、いかんせん値段が高すぎる。だから「ここで造れば競争力がつく」とうらめしそうに舌打ちした。
彼は才能豊かな「魏亜玲にやらせるべきだ」と小松に訴えていた。筆者も大いにうなずいてしまった。いかに小松製品が優秀でも「倍の値段では売れない」ともぼやいたものである。現地に工場がないと保守点検ができない。これも商売にマイナスである。
タイヤメーカーのほか2箇所の板金工場を案内してくれた。そこのプレス機械は日本、ドイツ製である。技術面に問題はない。一つの工場では、米軍が使用する軍刀を製造していた。これには驚いてしまった。米中関係は裏側では台湾問題でぎくしゃくしているのだから。
<足の指圧>
昆山に着いた11日の夜中に蔡英材がすばらしい場所に案内してくれた。日本人に人気の足底マッサージである。彼の過労と健康の回復場所だ。一度に数百人の客をもてなすことが出来る規模の大きな店だった。
蔡はここの会員になることで、料金をサービスしてもらっていた。腕のいい指圧師をいつも指名するのだという。指名されるほうは早く客を接待できる。双方に有益である。
普段は1時間だが、この日は蔡の配慮で2時間たっぷりかけた。どこもそうだが、指圧師は地方からの若い女性たちだ。農作業で鍛えた腕だから力強い。悲鳴をあげる客が少なくない。その分、よく効くのである。
彼女たちは明るい。よくしゃべる。一部屋に10人ほどの客を並べて指圧するものだから、仲間同士でも。だからといって力を抜くことはない。72歳になる蔡は、言葉に苦労はないから彼女らとおしゃべりしているだけで健康的なのだ。
改めて、台湾人がうらやましくなった。言葉の壁がない強みである。大陸での商売は日本や欧米をはるかに上回る。ましてや蔡は、植民地時代に日本の小学校で学んでいるから、日本語もできるのである。もっとも「誰でも入学できなかった。大半の台湾の子供たちは排除されていた。クラスには台湾人は二人だけだった。厳然たる差別が存在した」「台湾人は哀れだ。日本にやられ、そのあと国民党にやられた」とも指摘するのを忘れなかった。
ちょっと親しくなると過去が飛び出す。日本人は歴史を学び、鑑としなければ国際人になれないのだ。商人・観光客ともに、である。「友人に中曽根が軍人時代の秘書をしていた男がいる。会って話しを聞いてみないか」という予想外の提案もあった。中曽根海軍主計中尉の活躍は、本人から少し聞いてはいたが、彼が植民地時代の台湾にいたとは蔡の話で初めて知った。そのうち魏亜玲が案内してくれるかもしれない。
ともあれ、こんな指圧は生涯でこれっきりだろう。2時間の間に両足と両腕の疲れは完璧に解消した。これぞ台湾人の接待法なのである。
<中国人技術者>
南京には、この日の夜、昆山から新幹線で向かった。中国では「中国製」と公表しているのだという。なぜ、日本製といわないのか。理由は小泉の靖国参拝のせいであるらしい。
真相がわかると、人民の反発が予想されるからだろう。「参拝はしない」と公約している福田訪中で関係は改善しているが、当時としては仕方なかったのだろう。どうやら秋田新幹線に乗っている気分だった。速度は160キロ程度に抑えて走った。南京から上海に向かった時は260キロが最高速度であった。新幹線時代の中国の経済効果はすごいことになるだろう。現に、乗車した上海―昆山―蘇州―無錫-南京行きの夜の列車は、それでも満席に近かった。中国経済の隆盛を物語っていた。
南京駅では、タクシー乗り場が長蛇の列で30分以上待たされた。帰途の上海の夜中のタクシーに乗るのにもそれ以上かかった。列車は速度を速めたが、タクシー乗り場で引っ掛かってしまう。バブル経済でなければ幸いだ。
才媛について触れておこう。50の坂にはまだ先の魏亜玲は、西安の出身という。両親を亡くした関係からか、筆者の書いた「医師失格」(長崎出版)を読んで、南京訪問を誘ってくれた。彼女のお陰で南京の地に立つことが出来たのだが、そのうちよせられるはずの拙著の感想文が楽しみである。彼女のすごいところはエンジニアでありながら、大変すばらしい語学力があることである。こうした中国人は珍しい。才媛とされる理由である。
彼女は南京のシンポジウムで突如、通訳をして進行を助けた。最終日の全体会議では、質問者がわざわざ彼女に通訳を依頼してきたほどで、主催者側が立てた通訳のレベルをはるかに上回った。演劇場でも彼女のせいで日本人観賞者は助けられた。筆者は王新華との深夜の本音のやり取りにおいても、苦労せずにすんだ。正に八面六臂の活躍であるというのに、毎夜午前2時とか3時ごろまで寝ようとしなかったらしい。
当然、目のしたにクマが出来るほど体力を消耗していて痛々しいほどであったにもかかわらず、決して悲鳴をあげなかった。その忍耐力は常人の予想を超えていた。
彼女は南京からの帰途、上海交通大学での政治・経済問題のやり取りについても一人で通訳をこなした。その後の昼食会での対話も、である。健康を壊していないか、両親の運命と重ね合わせると心配でならない。
筆者の感動といえば、それは上海交通大学の博学楼賓館に一人で戻らなければならなかったときである。交通の渋滞がひどかった。捉まえたタクシー運転手が目的地を説明しても場所がわからない。他方、小松一行は空港に急ぐ時間が迫っていた。それでいて彼女はこの2つの複雑方程式を見事に処理したのである。
すなわち、筆者をタクシーで送り届けてくれたのだが、ロビーでの対応が厄介だと知るや、タクシーを待たせ筆者のトランクを引いてホテルへと疾走、チェックイン手続きを済ませて、再びタクシーまで疾走した。かろうじて小松一行の空港行きもこなしてしまった。あたかも超人のような行動力に舌を巻くと同時に、その誠実さに心から感動したものである。12月15日のことだった。中国人の偉大さを改めて感じ入ったしだいである。
<上海交通大学環太平洋研究中心>
上海交通大学の環太平洋研究中心では学者と学生らが待ち構えていた。筆者には日本政治の問題について質問がなされ、こちらは日本国憲法の厳しい環境を説明して、理解を求めた。学者は上海を代表する国際問題の大家らだった。陳教授は上海国際問題研究中心副主席である名詞をくれた。ふさふさした白い髪から鋭い分析が披瀝された。
季国興は彼の後輩のような学者で、筆者の指摘する財閥の暴走に関して関心を示してくれた。残念ながら、米国と異なり、まだ財閥と軍国主義の因果関係についての理解は乏しいようだった。
小松は独特の和譲論と孔子への熱い思いを語った。そのさい、学生の一人が中国2000年の封建時代に貢献した儒教に21世紀をゆだねていいのか、という趣旨の疑問を提起した。筆者の認識でもある。前回会った筆者と同い年の金教授は、この日は終始にこにこしながら双方のやりとりを聞いていた。
終わりに今回の南京訪問へと導いてくれた小松と魏に対して、敬意と感謝の念を申し上げようと思う。大晦日に活字を追いかけることができたのは、物書きとして初めてのことである。 2007年12月31日記
2007年12月31日 23:13