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2008年01月29日

本澤二郎の政治評論「台湾ロビー」(5):本澤二郎

[東京=「ジャーナリスト同盟」通信提供]
 
著者の政治部記者としての歴史的証言であるこの連載は灘尾時代に入る(事務局)。

 灘尾時代
 日華議員懇談会は灘尾時代を全盛期にして存在感が著しく低下している。以前は、会長である灘尾の清廉さと穏健さの賜物だった。確かに重みのある政治家であった。石原などとは天地の差を感じた。利権あさりに厳しかったため、台湾当局の信頼も厚かったという。
 余談だが、60年代の池田内閣というと、岸前内閣がぶち壊した日中関係を修復したことで知られる。池田勇人は側近の大平正芳を外相に起用し、国交回復の流れを勢いづかせた。あるいは、岸内閣の前の石橋内閣が短命でなければ、中国との関係は大きく前進したはずだが、不幸にも彼の健康が邪魔した。石橋は病を回復すると、示し合わせたように宇都宮徳馬と北京を訪問して両国の友好関係に拍車をかけた。
 池田を徹底的に支えた前尾繁三郎(元衆院議長)もまた、大変な徳のある政治家として有名であるが、彼と灘尾の友情も格別だった。二人の関係が、灘尾の人柄を物語っている。日中国交回復は、当初社会党など野党の専売特許であったが、鳩山内閣が日ソの国交を回復すると与党の自民党内リベラル派から「次は中国だ」という流れが噴出する。しかし、岸の実弟である佐藤栄作の内閣で再び頓挫してしまう。岸-佐藤―灘尾ラインが日中間の大きな壁となっていた。
 松村謙三、藤山愛一郎らの地道な活動と岡崎嘉平太ら財界人の支援を基礎にして、そこに誕生した田中内閣(大平外相)によって日中の改善がようやく実現したのだが、このことは台湾ロビーの中核となっていた日華懇の抵抗の大きさを証明している。日中国交正常化して35年を経ても、この議員グループはまだ存続している。資金の豊富さゆえであろう。果たして特異な人物で知られる平沼のもとではどうなのか。
<福田康夫幹事>
 手元に2007年11月2日現在の日華議員懇談会の役員名簿がある。なんと現首相の福田康夫が役員ポストの幹事になっている。福田もまた父親と同様、台湾派の重鎮の一人であったのだ。2008年1月18日に幹事長の藤井孝男と会見するため、参院議員会館の藤井事務所を訪問したさい、そこにいた事務局長の橋本にも会った。お互いすっかり顔を忘れていた。
 藤井事務所の小林秘書の紹介を得たものだから、さっそく彼に福田の様子をたずねてみた。総理大臣になった福田は「昔とは違う」といって肩を落とした。
「外務省のチャイナスクールにやられてしまいましたよ」とその理由を教えてくれた。「当選したころは、とても熱心なメンバーでしたよ」とも付け加えた。福田の友人に中国派の外務官僚がいるということは一部でよく知られているが、橋本はそのことを指摘したのだ。
 筆者は亡くなった宮澤喜一の地元、広島県に本社のある中国新聞の論説委員から「福田官房長官はいつも宮澤の所に来ている。外交問題を学んでいる」と耳打ちされていた。そんな福田に興味を持つと同時に、大いに感心した。
 宮澤こそ戦後の日本外交の生き字引である。彼に相当する外交通が、この日本に存在しなかったのだから、福田が宮澤を頼って当然ともいえるのだが、関係はそれだけではなかった。宮澤は福田の父親にも大事にされていた。政界随一の知性派で英語使い、それに戦後復興時の吉田内閣の裏面をも承知していた宮澤を、福田赳夫も派閥は異なっていても大蔵省の後輩には一目置いていた。
 戦前から米国の内情を知る知米派だけに、比例してアジアを重視していた。それは保守本流の元祖・吉田茂とも共通していた。また、母方の祖父・小川平吉(元政友会副総裁)は孫文とも交流があった。次男の小川平二と筆者の交流は晩年まで続いたが、彼の自宅には孫文筆の「博愛」の額が掛かっていた。宮澤は平吉の影響を強く受けていた。宮澤外交に共鳴した福田康夫は小泉内閣で、小泉と安倍というブッシュ一辺倒の右翼に挟まれてうんざりさせられる日々を送っていたことが、これでなんとなくわかろう。それは福田の日華議員懇談会への興味を半減させるものでなかったろうか。
<役員名簿>
 参考までに日華懇の役員を列挙しておこう。特別顧問が森喜朗と綿貫民輔。後者は神官としても有名である。総理大臣になった福田も、このポストということらしい。
 会長が平沼赳夫、副会長が愛知和男、麻生太郎、江藤征士郎、亀井久興、玉沢徳一郎、中井O、鳩山邦夫、藤井裕久。この中では麻生、玉沢の台北寄りが目立つ。後者は軍事面での支援を云々されている。
 幹事長は藤井孝男、幹事長代理が中川昭一。平沼―麻生―中川ラインに安倍を加えれば、台湾派4人組ということになろうか。
 副幹事長が大江康弘、坂本剛二、船田元、古谷圭司。船田の祖父も台湾派で知られていた。二代目だ。
 幹事は魚住裕一郎、奥村展三、鴻池祥O、小池百合子、鈴木克昌、渡海紀三郎、西銘恒三郎、藤原正司、水野賢一。昨年11月の名簿には、福田もこの幹事の中に名前を連ねていた。(Oは漢字がないため省略)        
<藤井幹事長と会見>
 中国経済の大飛躍と世代交代、台北の政治経済変動という新たな環境のもとで、日華懇は何をしているのだろうか。2008年通常国会が召集された1月18日午後、参院議員会館の藤井事務所を訪ね、幹事長から現状などを語ってもらった。「財界政治部長」の名前をほしいままにした実父・丙午を政界へと引きずりこんだ人物は、いうまでもなく国交回復を断行した田中角栄である。後継者の息子は、田中派から離脱した旧竹下派のプリンスにまでなって総裁選にも出馬している。それがどうして日華懇の幹事長なのか。筆者は不思議に思っていた。
―どうして日華議員懇で活動しているのですか。
 「オヤジの影響ですよ。オヤジは敗戦時の蒋介石の対応に感謝をしていました。日本分断に反対してくれたので、いまの日本がある。むろん、オヤジは反中ではなかったですよ。反共でしたが」(こうした奇麗事は灘尾のような人物の口からだと、ごく自然に思えるのだが。しかし、目の前の藤井は父親もそうだが、田中派の系統である。むろん、田中派にも金丸や小沢のような台湾派がいたのだが)
 「金丸、小沢、小渕さんも台湾によく行きました。綿貫さんも」(天下を狙うのであれば中国に行くべし、と小渕恵三に対して直接、談判したことがある。そのとき小渕は「中国は竹さんが行っているじゃないか」と釈明したが、外務大臣になる前に北京で胡錦濤と会見、約束を果たしてくれた。小渕はまた、盧溝橋近くの川原に友好林を作っている。竹下が小渕、金丸が小沢を支援していたという関係も影響したであろう。現在、小沢も竹下が設立した長城計画を推進、暮れに北京を訪問して歓待を受けている。一度、筆者も愛野興一郎の薦めで参加したものだ)
―角さんへの恩義もあるでしょう?
 「ですから、私は日中友好議員連盟にも入っていますよ」(これは意外だった)
―今の会員はどれくらい?(すると椅子から立ち上がり、扉を開けて小林秘書に問い合わせた上で)
 「228人です。衆参あわせて」(昔は300人程度と記憶している。やはり地盤沈下しているものなのか)
―ところで、現状の台北をどう御覧になっていますか。
 「1月12日に立法院の選挙が行われ、ああいう結果になりました。3月21日には総統選挙ですよ」
―民進党の大敗北原因をどう分析しますか。
「台湾経済がよくありません。そして最大のポイントは国会議員225議席を半減させ、予備選でふるい落とすなど、いろんなことが考えられますね。陳総統スキャンダルとか、国連加盟の国民投票とか。米国が大陸に気を使って双方にズレが生まれていた。日本は内政にとやかくいえない。賛成の立場をとれずにあいまいにしてきました」
―経済事情もありますね。
 「台中経済は切り離せないほど貿易は膨らんでいます。国際関係はグローバル化して大陸とは貿易面、人的面で交流が深まっていますしね」
―民進党政権になって双方に変化?
 「民進党は8年間、独立に向けて走るなど陳総統になってから随分変わりました。一方、大陸は軍事力を強化しながらも、オリンピック、万博がありますから微笑外交に徹しています。日本が福田内閣になって北京は大歓迎でしょう。暮れの福田訪中は異例なもてなしですよ。春には胡錦濤主席が来る。福田内閣は中国重視ですから。確かに8年間の台湾独立志向で大きく変わったものの、景気が悪く、総統夫人のスキャンダルなどで国民は一気に国民党へ流れたといえますね」(台湾派にとって台湾は国・国家という認識なのか)
―この流れが総統選挙に続きますよ。藤井さんはどれくらい台湾へ行きましたか。
 「何十回も行きましたよ。でも、いやな思いをしたことはありません。お互い島国ということで、日本をよく理解してくれています。生活レベルも上がっていますしね」
―中国には行ったことがありますか。
 「2回ほどですね。一度は竹下さんと。2回目は所属していた衆議院の常任委員会の訪中団の団長として行きましたよ。歓待を受けました」
―ところで、日華懇はどんなことをしていますか。定期的に会合を開いていますか。
 「定期的というよりも、ことあるごとに頻繁に会合を開いていますよ。これまではビザの問題です。随分、苦労しましたが、ようやく解決することができました。これからは長期滞在ビザをどうするか。一つ一つやっていきますよ」
―会長の平沼さんの健康はどうですか。声がかすれていますね。
 「ええ、でも元気ですよ。声帯をやられたのでしょうね。ゴルフもやっています」
―生長の家と日華懇は関係がありますか。
 「それはありません。宗教は無関係ですよ」
―福田さんが幹事になっていますね。彼は台湾派?
 「今は顧問です。親中派でしょう」
―3月の総統選挙について、国民党と民進党のどちらを支援するのですか。
 「これは台湾の人たちが決めることですよ。我々がとやかく言える立場ではありません。国交もない。実態関係による相互信頼で、観光・文化・芸術などの交流をしているものですから」
 「総統選挙が日台関係に変化することはありません。確かに国民党の馬英九とは、これまで交流はありませんでした。台北市長時代にかなり厳しい日本認識をしていましたから。でも昨年、日本に来まして自分は反日ではないと言っていました。日華懇とも会いました。その後に民進党の総統候補の謝長廷さんも来られた。彼は日本語を話した。日本の大学に留学しています」(筆者の感じだが、日華懇は独立派の民進党との関係が、8年余の政権担当という事情もあってか深いようだ。国民党政権が実現すれば、容易に軌道修正をするであろうが、心情的には独立派に傾倒しているのだろう。台湾有力紙・中国時報による1月13日世論調査は、馬英九の支持51・4%、謝長廷19・9%)
<松野頼三秘話>
 前回の取材では、松野頼三に依存する機会が多かった。それというのも、当選回数と人脈がものを言う永田町では、松野のような人物は恵まれているため、あらゆる関係者との出会いとそれゆえの情報が格段に集中するからである。そこから予想外の出番をつかむことができる。松野秘話を紹介しよう。
 しかし、なんといっても実父・鶴平の存在が大きかった。福岡県の地下足袋メーカーを立ち上げた石橋正二郎というと、いまや世界で活躍するタイヤメーカーの創立者であるが、石橋家とも関係が深い。自衛隊車のタイヤもほとんどがブリジストン製であるが、確認したわけではないものの、これなどは防衛庁長官経験者である松野の力添えなのか。それにしても、石橋の手口はしたたかである。長女を東京の名門・鳩山一郎(元首相)の長男・威一郎(大蔵官僚・外務大臣)に嫁がせた。由紀夫(民主党幹事長)、邦夫(法務大臣)の母親だ。3女を三井財閥関係者へ、4女を衆院議長になった石井光次郎の長男へと、まるで戦国武将さながらの政略結婚をさせて、世界的タイヤメーカーに育てた。ちなみに3女の関係では宮澤家、甥の妻は池田勇人の娘でもある。資本主義社会でも会社の業績を急成長させるためには、権力との関係が何よりも大事であることがわかろう。見方を変えれば、これぞ腐敗構造そのものではないだろうか。公正ではない。
 所詮、政商でなければ企業の拡大は望めない風土がこの日本には存在する。ともあれ正二郎は娘を鳩山家に嫁がせることで、総理大臣・外務大臣などを手にした。そんなブリジストンを戦前から支援していたのが、熊本県の作り酒屋から政友会代議士になった松野鶴平だったのだ。余談だが、石橋の遺産は、娘を経由しておよそブリジストンの800万株が孫の鳩山由紀夫と邦夫へと相続した。年初来の世界同時株安で邦夫は「40億円も損をした。兄も同じだろう」と軽口をたたいて、年収200万、300万円で生活している多くの国民に衝撃を与えた。二人とも株の配当金で政治をしていたのである。親の七光りということになろう。
 松野が政界引退しても由紀夫や小泉が松野の事務所をよく尋ねていたが、前者はブリジストンの関係による。後者は大学(慶応)の先輩だからだ。息子の頼久を由紀夫に預けて民主党から代議士にしている。松野は小泉が生まれる2年ほど前に慶応大学を卒業、敗戦3ヶ月前に海軍主計少佐で任官している。大学卒業後5年も入隊を免れているのは、父親の政治力のせいであったろう。赤紙1枚で戦場に送り込まれた大半の若者ではなかった。ベトナム戦争を回避した今のブッシュ大統領に似ている。
 松野に一度だけ戦争時の昔話を聞いたことがあるが、驚いたことに「いやな思い出はない」とうそぶいた。中曽根康弘と同じ主計畑だ。鉄砲玉をかいくぐる体験をしていないのである。危険な目に遭っている戦後政治家に改憲派はいない。岸や中曽根には戦争の本当の怖さがないのである。「戦争が終わってほっとした。今日から家に電灯がつくだろう」と喜んだ宮澤喜一のような庶民感覚が、二人にはない。
 鶴平は戦後の第一回目の選挙に出ると、鳩山一郎ら共々に戦争責任を問われて追放された。仕方なく、戦後2回目の選挙に息子の頼三を出馬させて当選させる。そして吉田茂総理大臣秘書官にもさせるのである。鶴平は追放を解除されると、参院議長になり吉田御三家の一人として外交官首相を党人派長老として補佐した。
 オヤジは吉田側近中の側近だから、セガレは吉田派若手として、まことに幸運な政界第一歩を踏み出したことになる。それでいて吉田の政敵・岸信介の内閣で、総理府総務長官と労働大臣に就任した。岸は息子を重用することで、鶴平人脈を利用したのである。あたかも小泉が石原のセガレを大臣に起用して、石原の動きを止めたように。ついで岸の実弟・佐藤栄作の内閣で防衛庁長官と農林水産大臣にも就任している。佐藤までがどうして松野を重用したのか。これも鶴平との関係がものをいったのだ。彼は戦前、鉄道大臣をしており、鉄道官僚の佐藤に目をつけていたのである。
 吉田内閣の官房長官に佐藤は、ノーバッジで就任している。この破格な待遇は戦後の混乱期という事情だけではなく、鶴平の支援があってのことだった。佐藤はそのことを忘れていなかったのである。
 以上の経緯を踏まえた上で、松野と政治行動をともにしてきた平井秘書が、松野密使の秘話を披瀝してくれた。
 詳細な日時を平井も記憶していない。そのころはというと、71年7月に米国務長官のキッシンジャーが北京を電撃訪問、周恩来と長時間、会談を行った。翌年、大統領のニクソンが訪中した。もはや国際社会は、中華民国の台湾から中華人民共和国が中国を代表する唯一の政府という認識で固まっていた。
 それでも台湾派の佐藤首相は、こうした流れに抵抗して台湾を国連に残留させる手立てを講じようとしていた。既に、64年にはフランスがいち早く中国承認を宣言していたにもかかわらず、である。頼みの米国はベトナム戦争の泥沼で身動きできなかった。なんとかして北京を説得できないものか。当時、福田赳夫外相が「アヒルの水かき外交」に懸命だった。保利茂官房長官は美濃部亮吉知事の中国訪問を利用して周恩来に「書簡」を届けたりしていた。恐らく蒋介石に恩義を感じる佐藤や岸は、この時とばかり台北の擁護に必死であったのであろう。
 こんな風雲急を告げる局面で、佐藤は松野に「蒋介石に直接会見して、本心を聞き出してもらいたい」と命じたのだ。秘書も連れずに一人で、こっそりと台北に乗り込んだ。蒋介石と鶴平の友情も深かった。親子2代にわたる信義を踏まえての佐藤密使に、総統も快く迎えいれた。余人をもって変えることなどできなかった
 松野は佐藤の伝言を、中華民国総統に率直に伝えた。この場面では、岸と佐藤ができる最善の蒋介石への友誼であったのだろう。しかし、総統からは予想外の回答が松野の耳に届いた。「すべて日本政府に委ねる」という一言だった。
 彼は日本の努力を承知していた。そして事態は台北から北京に動いていることも。頼みのワシントンがベトナム戦争でがたついていることも。もはやあれこれ日本政府が工作しても、局面に変化など起きないことを承知していたのであろう。
 松野はほっとして帰国の途に着いた。あと佐藤・岸の兄弟のなすべきことは、台湾派の福田赳夫に政権を譲ることだけだった。岸派残党と佐藤派を福田支持にまとめることで、福田内閣が実現すると多くの政界関係者はみていた。松野は福田派の参謀として汗をかくことになる。
 しかし、ブルドーザーのように馬力のある田中角栄が佐藤派の大半をかっさらってしまうのである。マスコミも財界も田中―大平連合を支持していた。田中の盟友・大平は、やや力ずくで前尾派を大平派に衣替えしていた。大平参謀が鈴木善幸である。福田を仇敵にしてきた中曽根は、勝ち馬に乗ろうとして田中支援を買って出てきた。リベラルな三木派の協力も取り付けて、勝負は田中に軍配があがった。3ヵ月後に日中は国交を回復した。こんな自民党総裁選に筆者は政治記者1年生として参画した。担当は大平派である。初めて会った政治家が鈴木である。毎晩、鈴木邸に押しかけて派閥記者の洗礼を受けることになった。
 思えばこれも奇縁というほかない。もしも、福田派を担当していたら現在の自分はなかったかも。権力にくらいついて腐敗の底に落ち込んでいたのかもしれないのだから。無冠だが、幸運なジャーナリストだったのかもしれない。
2008年1月28日記

2008年01月29日 18:20

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