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2008年01月31日
韓国に暮らして―朱敬子さん[9]―5:鄭容順
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朱敬子さんの夫は韓国経済を支え続けた現代自動車に勤務していた。
現代自動者は韓国の自動車産業しとして輸出自動車の先駆者の役割を果たした会社である。創業者の鄭周永さんの自叙伝を読むとアメリカのフォードの会社との熾烈な戦いのことも記述されていた。日本の自動者産業も輸出で海外に進出をしていた。先人たちは動乱で破壊した国土建設に血と汗と涙で築きあげた歴史を自叙伝から理解ができた。そんなことを筆者は取材しながら思い起こしていた。
朱敬子さんの夫も海外赴任が多く何ヶ月も家を留守にしていた
夫のいない家で姑や小姑と一緒に暮らした。「夫のいない家で約10年間、シジップサリ(嫁暮らし)をしました。結婚生活はこんなものだと思っていました。辛い時もありました。辛い時は星を眺めては同じ空の下に夫がいると思うことで自分を慰めていました。それに秋のキムチジャン(キムチをつける季節)になると200個の白菜をつけるのです。結婚したのは8月でした。結婚した最初の年の11月がキムチジャンでした。韓国の家の造りは家の真ん中に庭があります。ここでキムチを漬け込むのです。私と義母、義姉たち6人が見ている。キムチをつける手伝いをしているときに義弟が見ていて笑うのです。『あの手つきは日本的だ』と言って笑っているのです。こんなときも主人は海外に赴任していて韓国にはおりませんでした。義父も夫と同じで海外にいましたから。何も誰にもいうことができず苦労しました」と話す。
結婚して8年、上の子どもが学校に行くようになって外にでていろいろな空気を吸えるようになった。
夫の家族と同居して弟を高校・大学を行くための面倒を見てきた。
子どもは3人に恵まれたが小姑のいじめには死んでしまいたいと思うときもあった。口ではいえないことはたくさんあった。このままタクシーから降りて死んでしまいとも何度も思った。
上の子どもが小学校に入った1年の時に夫が外国から帰ってきて義母と別に暮らすようになった。日本人や在日韓国人の多いソウルの二村洞で住むようなった。
「もしかして1番喜んでいたのはうちの主人だったのではないかと思っています」
しかし夫は外国に行くことが多く女性の1人暮らしを心配した義父が小姑を家によこしてきました。結婚していなかったのですが年を取ってきてすることがないので朱敬子さんのことが1つ1つ気になって仕方がない。「言葉では本人のためというのですが私にはいじめでした」
しかしこの後、カトリック信者だった私の影響で小姑もカトリックの洗礼を受け義母も洗礼を受けた。嫁ぎ先は仏教でお寺に行っておられたが義母も小姑もカトリックの信者になった。
朱敬子さんは「義父や弟、小姑をかかえて韓国で暮らしてきましたが宗教のカトリックがなかったら生き抜いてこられなかった」と話した。
この間、経済的な苦労もあった。それなのに夫は海外にいた。
「何度死にたいと思ったかわからない」という言葉に穏やかで優しい目で話す朱敬子さん。この人がそんな苦労してきたとは思えない。
しかし朱敬子さんの「宗教があったから生き抜いてこられた」と言う言葉に韓国で暮らした年月、もう大方40年以上になるだろう。乗り越えてこられたものがこうした優しさを作り信仰に捧げたことも穏やかな人柄を作ってこられたのだろうと筆者は話を聞きながらそんなことを考えていた。
韓国の大学に留学したのが1965年、1970年に結婚した。
三星の企業の研修員で夫と知り合った。取材メモに記述していないが筆者の予想として思うことは日本語の講師をしていて知り合ったと考えているが訪韓したときにもう1度この話を聞きたいと考えている。
義理の姉は美大を卒業している。朱敬子さんの絵画の取り組みはこんなところで影響しているのだろうか。
2008年01月31日 00:56