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2008年04月22日
寄稿「マキハダづくりを追って」Ⅶ:福島俊弘
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マキハダ(槙の樹皮・マキハダ)について研究している天理市立北中学校夜間学級(夜間中学)の教員、福島俊弘さんのレポートを紹介しています( 毎週火曜日に連載-鄭容順)
前回に続いて「生産地の分布」です。
マキハダについて調査された数少ない資料の中に、『あるく みる きく』(日本観光文化研究所 1988年5月所収の「特集:瀬戸内の槙皮船」がある。〓横山浩子「マキハダ―県内における桧皮繊維利用の一例―」)〓(『民俗博物館だより』85、奈良県立民俗博物館、2001年)〓そこに書かれている記録を参考にしながら筆者が行った調査について略記する。
(2)輪島
『あるく みる きく』には、穴水と書かれているが輪島の間違いであろう。
輪島の『能登桧皮工業所』は、前田伊之助さんが1942(S17)年に会社を作り1946年(S21)年から1986(S61)年まで操業している。前田さんの父は4才のとき若狭の小浜から輪島に木の皮を求めて移ってきた。輪島では、「マアテ」というアスナロの木を使用している。製材所から皮を持ち帰って海岸に干し、1度雨に打たせてから縦に割れるくらいまで乾燥させてホイロで乾燥させる。
煉瓦を積んだホイロが2つあり、鉄製の扉を上から降ろして蓋をする形で、鉄の棒2本を敷いた上にかごを2つずつ2段に乗せる。そのかごの中に幅5㎝くらいに割った皮を縦に入れて、下からおがくずで発火寸前まで燻す。製縄工が最盛期には25、6人いて打毛した皮を綯って製品化していた。販路は、室蘭・函館・小樽・留萌など北海道、酒田・能代・新潟の船具屋さんに送っていた。夕張炭鉱の坑道用にも閉山するまで送っていた。1990年に仕事を終えた。北陸地方には他に、松任や津幡に同業者があった。
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(3)金沢
金沢市金石(かないわ)に『加賀桧皮製材所』があった。金石は、金沢市内から海岸線に延びた「北陸鉄道」が1971年まであったが、その鉄道を利用してアテの皮を輪島の前田さんから入れていた。
海岸を埋め尽くすくらいに皮を天日干しした。製品は極細(1㎝)・並細・並太・極太(3cm)の4種類を作っていた。縄の色で製品の質を判断していた。赤茶は安く黄色は高い値段が付いた。
女性10人男性3人が働いていた。銚子や北海道の小樽、夕張に送っていた。1970年にやめた。鉄道の廃止の影響も大きいと思われる。
記述をしている鄭容順は子どもの頃、親戚がいた桜井に行くと在日コリアンの1世たちが足に縄をかけて編んでいるところ、そして綯い台に縄の材料をかけて編んでいるところも見たことがある。よく火事が起きた。大人たちの話しで耳にしていた。縄を編んでいるだけでなぜ火事が起きるのかこの文献を見るまで知らなかった。火事の原因は室内に作られた人口の室で乾燥することで起きることが分かった。あんなにおが屑がまわりに散らばっていたこともこの文献で知った。服も体も顔もまっ黄色になって働いていた1世のオモニの姿は今も目に焼きついている。
【写真説明】①35年ぶりに再現/高野槙製のマキハダを綯う上岡幾子さん。②マキハダの綯い台/突き出た棒に縄を巻き取る。写真も写真説明も寄稿者の福島俊弘さん。
⊿お断り⊿2001年、奈良県立民俗博物館「民俗だより」85、民俗を博物館だよりVol34 No2(通巻99号)から。奈良県立民俗博物館だより(通巻100号)原稿から。
*参考資料は横山浩子「マキハダ―県内における桧皮繊維利用の―例―」(『民族博物館だより』85、奈良県立民俗博物館2001年)。
本稿の「朝鮮人」とは朝鮮半島出身者を総称として使用。
2008年04月22日 00:44