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2008年04月30日
東大寺と渡来人:古代ロマン塾 山川登
〔22〕 慈訓 ④
慈訓の叔父、父の兄弟にあたる人に僧道昭がいる。『中河内郡誌』によれば、「道昭俗姓は船氏、少錦下恵釈の子なり、其先は敏達天皇の御宇、高麗国より烏羽ノ表を上りし時之を読みし、王辰爾なり。 写真は案内板
白雉四年五月遣唐使に随ひて入唐し、玄奘三蔵に遇ひて法相の教を受け、又傍ら禅宗をも伝へたり在唐七年の後帰朝して奈良の元興寺に住し、盛に法を弘む、後諸国を廻歴して路傍に井を鑿ち、津渡に船を設け或は橋を架して民来の利便を謀れる事多し、山城の宇治橋の如き道昭の架する所なり、彼元興寺の東南なる禅院にて専ら坐禅を事とし、文武天皇二年大僧都となり四年三月この禅院にて寂す、年七十二遺言によりて火葬に附す、是本邦に於ける火葬の始なり」とある。
その道昭は、僧行基の師でもあり、行基も師にならって、火葬に付すよう遺言したという。慈訓も叔父道昭の教えが大きく影響したであろうことは想像に難くない。
船氏はまた、智識寺を興隆させた一族でもあるという。それほどまで繁栄した氏族で、枚方市中宮の百済寺跡は、王辰爾の邸宅跡だとされるし、岡山市児島にも船氏の流れの一族が住み着き、海運で巨大な富を築いたという。現在の神戸市中央区の脇浜海岸通を含む東の岩屋、大石界隈も、その昔、船氏一族が居住した地とされ、氏神の船寺神社、氏寺の船寺が同じ地にあったという。
しかし、明治政府の神仏分離令によって、船寺神社は独立したが、船寺は廃寺となったという。船寺神社の縁起では、神功皇后が三韓出兵の帰途、この沖で風波が荒れたので敏馬の入江に船を入れて、波の静まるのを待ったので、のちに神社を建てて祭ったというが、皇国思想により〝朝鮮かくし〟の縁起であろう。
ところで、百済一四代王近仇首王を貴須王としている書をよくみかけるが、『三国史記〈百済本紀〉』には二一四年に即位した第六代の仇首王を、あるいは貴須王ともいう、とあるから、三七五年に即位した近仇首王とは別人であることをしらねばなるまい。でなければ、陰湿な改ざんのワナに嵌(はま)ってしまうからだ。
2008年04月30日 06:40