2008年04月09日
東大寺と渡来人:古代ロマン塾 山川登
〔19〕 慈訓 ①
金鐘寺での審祥の華厳教講説に学んだ人として、東大寺の開祖として知られる良弁が有名だが、審祥と共に入唐し、賢首から華厳宗の深旨を学んだ人として僧慈訓がおり、副講師をつとめた。慈訓は「じくん」あるいは「じきん」と称されている。
写真は興福寺
ちなみに、審祥と慈訓の師である賢首は、俗姓を康氏、名を法蔵といった。第一祖杜順、第二祖智儼のあとを受けて、中国華厳教学を完成樹立した人とされ、第三祖に位置づけられている。六四三年(貞観一七)に長安で生まれ、一七歳のとき、智儼の「華厳経」講義を聞いて師事し、則天武后に親任されて、華厳教学の宣揚につとめた。著書に「華厳五教章」「華厳経探玄記」「起信論義記」「十二門論疏」「華厳経伝記」などがある。
聖武天皇は、天平十二年(七四〇)に智識寺の大仏を見て、東大寺建立を決意し、三年後の天平十五年(七四三)に大仏建立の詔を発したのであるが、船氏一族の慈訓を教理研究の副師とし、東大寺に住まわせたのである。その慈訓に関して、『元亨釈書』に次のように記されている。
世姓は船氏。河内の人。初め興福寺の良敏、玄昉二師につかえ、法相宗を学ぶ。後、審祥法師とともに海をこえて入唐。賢首国師法蔵にまみえ、華厳の深旨をうける。帰り来て良弁につく。賢首宗を建てる。称徳帝はこれを尊び、食邑を与える。天平勝宝四年、僧都になる。宝字元年、興福寺主務になる。この職は慈訓より始まる。宝亀八年没す。(後略)
慈訓は、持統五年(六九一)に生まれ、宝亀八年(七七七)に八六歳で他界したから、当時にあっては長寿ということになろう。
審祥の副講師をつとめのは天平十二年(七四〇)で、天平勝宝七年(七五五)には宮中講師となり、翌年、聖武天皇が病気となった際、良弁、安寛とともに看病禅師、華厳講師をつとめ、その功によって少僧都に任じられた。また、天平宝字四年(七六〇)に良弁らとともに僧位制度の改正を奏上している。
2008年04月09日 06:42