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2008年04月16日
東大寺と渡来人:古代ロマン塾 山川登
〔20〕 慈訓 ②
慈訓は、宝字元年(七五七)、興福寺主務になったと『元亨釈書』は記すが、興福寺関係のホームページには「興福寺の最高責任者は別当(べっとう)と呼ばれ、はじめて任じられたのが天平宝字元年(七五七)で、初代は慈訓(じきん)」とあった。
写真は興福寺五重塔
主務が別当という名称に代わったのかと、少々気になったので、興福寺に電話を入れてみた。「奈良時代の記録がないので、元亨釈書にしても後世にできたもので、どのように呼んでいたのか、分からない。主務という役職は今はないし、慈訓に関係する法要などもない」という答えだった。ということになれば、別当があって、主務がなければ、主務が別当に名称変更されたと解するよりほかなかろう。
孝謙天皇〔在位:天平勝宝元年(七四九)~天平宝字二年(七五八)〕は、次の淳仁天皇を経て重祚し、称徳天皇(在位:天平宝字八年(七六四)~ 神護景雲四年(七七〇)称したが、この孝謙天皇(=称徳天皇)に寵愛されたのが僧道鏡で、帝位を窺ったことで悪名が高いが、天平宝字七年(七六三)、少僧都の地位にあった慈訓が解任され、道鏡が任じられた。背後に大きな謀略があったことが感じられる解任といえようが、宝亀元年(七七〇)少僧都に復帰した。その年(宝亀元年)、称徳天皇が病死し、道鏡は造下野薬師寺別当(下野国)に左遷され、没した。
五重塔で有名な興福寺は、東大寺の近くの奈良市登大路町にあり、猿沢池が隣接する。法相宗の大本山で、本尊は釈迦如来という。興福寺の創建は、和銅三年(七一〇)とされるが、平城遷都にあわせたものともされる。藤原不比等により開基されたというが、その前身は天智天皇八年(六六九)に山階陶原の藤原鎌足の私邸に建てられた山階寺で、この山階寺が厩坂寺(高市郡厩坂)を経て興福寺となったという。後世、この山階寺という呼称が興福寺の別称として盛んに用いられたという。興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護され、隣接する藤原氏の氏神の春日社と一体化して増大、一二世紀の中頃にはその管領支配は大和一国におよんだという。
2008年04月16日 06:50