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2008年04月23日
東大寺と渡来人:古代ロマン塾 山川登
〔21〕 慈訓 ③
興福寺では、開山僧をたてないが、それは、延宝七年(一六七九)の「興福寺寺社年中行事扞勤行之事」に、「興福寺建立の時分は、法相碩僧、数多これ在り候。別して、開山僧の儀申し伝えこれ無く候」とあるかららしい。 写真は興福寺
寺務を総監する別当には、天平宝字元年(七五七)、慈訓が初任されたと『興福寺別当次第』(重文、一六世紀後半書写)は記すから、慈訓が、開山僧に相当すると見ていいだろう。
慈訓は船氏一族であった。その船氏というのは応神朝に千字文と論語を将来し王仁博士の後裔である。王仁博士は、辰孫王とも称され、百済一六代辰斯王の子であり、日本に渡来して、仁徳帝に近侍したとされるが、応神帝そのものである可能性が高い。
その辰孫王は、大阿郎王、玄陽君、午定君、王辰爾と続き、『日本書紀〈欽明紀〉』十四年条に、「蘇我大臣稲目宿禰が勅を承って、王辰爾を遣わし船の税の記録をさせた。王辰爾を船司とし姓を賜って船の史とした。今の船連の先祖である」とあって、王辰爾が船氏の始めとされる。蘇我氏との繋がりは極めて深いものがあったと推察される。
また、〈敏達紀〉元年条には、 「高麗の奉った文書は烏の羽に書いてあった。字は烏の羽の黒いのに紛れて誰も読める人がなかった。辰爾は羽を炊飯の湯気で蒸して、帛に羽を押しつけ全部その字を写しとった。朝廷の人々は一様にこれに驚いた」とあって、王辰爾は大いにほめられたという。西暦では五七二年の話である。
船氏は河内国旧丹比郡、現在の柏原市、藤井寺市付近を本貫として栄え、柏原市にあった知識寺の興隆にも船氏が大いに尽力したとされる。『柏原市史』によれば、「船氏は、応神天皇の時代に朝鮮半島の百済から帰化した辰孫王の子孫で、その一族は国分の一帯に船氏、藤井寺市を中心に津氏、葛井氏の三氏に分かれてそれぞれ繁栄した。これら三氏の子孫は更にいくつかの氏に分かれ、永く宮廷内外で活躍した」とある。
2008年04月23日 06:40