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2008年04月27日
「若冲百話―五百羅漢編」15:片瀬五郎
「蕉斎筆記」
そして大火の五年後、石峰寺門前に居を構える若冲のことを、寛政五年(一七九三)に広島浅野藩の平賀白山が、大坂の奉時堂松本周介からの聞き伝えとして記している。<「蕉斎筆記」>
今は稲荷海道に隠居して五百羅漢を建立し、絵一枚を米一斗と定め、後の山の中へ自身の下絵の思い付きにて、羅漢一体ずつ建立している。それで斗米翁と落款を書いている。金銭だと、相場によらず一斗換算、銀六匁ずつを取る。すぐに石工の手に渡し、依頼者の好みの草画を一枚ずつ贈る。妹もありて、外へ嫁居していたが、後家となり、一人の子を連れて若冲と同居している。尼になっており心寂という。和歌を好み、石摺版画をこしらえて売っている。他人は若冲の妻なりという者もある。
翌年の寛政六年、平賀白山は十月十八日に、はじめて石峰寺門前の若冲を訪ねる。「百丈山石峰寺へ参る。是には若冲居士門前に居住せり。しばらく咄をきゝぬ。ふすまに石摺のやうに蓮を書けり。面白き物好き也。五百羅漢を一見しぬ。是は山上に自然石を集め形り(ママ)に若冲彫付たり。段々迂回して道を作れり。其外涅槃像もあり。甚面白き事なり。又其山の入口に新に亭を建たり。是も若冲の物好き也。寺の左に若冲の古庵あり。庭もさびておもしろし。妹を眞寂尼といふて両人住居せり。」
妹のこと、子どものことは謎だが罹災の数年後には、若冲は後山の石像群造成の作業を再開していた。その費用捻出は、墨絵を相手の希望にあわせて描き、米一斗あるいは銭六匁と交換することであった。衆生の作善であろう。この時、白山は若冲に詩を贈っているが、「本来無二畫禅師」と記している。畫禅師という言葉には後で触れる。
それと興味深い記載がある。旧庵である。大火の後に、門前に居を構える前、寺の左、すなわち北隣の地に、アトリエを兼ねた小さな住居があったのだろう。後に観音堂が建つ場所辺である。
(毎週日曜日連載)
2008年04月27日 19:32